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浄厳院紹介 その2

浄厳院の紹介

◆浄厳院は近江守護の佐々木氏菩提所である慈恩寺跡地に織田信長が天正年間(1573~92)、栗田郡金勝山の浄厳坊の僧侶らを移らせ開基した。
楼門は天文年間(1532~55)、慈恩寺の楼門として甲良大工により建立(仁王像岩座墨書)されるが、浄厳院の創建にあたり浄厳院の楼門として遣わされた。その後、近世には大きな修理を受けなかったが、明治22年に上階が崩落したので屋根を切妻造りにするなどの応急的修理をされた。
平成8年の解体修理により、建立当時の形式がほぼ明らかになったので、現在の姿に復原・整備された。
楼門は平面寸法や組物の構成が垂木間隔(六枝掛)を基準に計画されていること、四隅の柱を他より長く延ばすことなど中世の建築に見られる技法を用いている。一方、部材の組み方は非常に整理された近世的なものとなっている。
この楼門は歴史的には佐々木氏に縁のある旧慈恩寺の楼門である。また建築技法的には中世的なものを遺しながら、整然とした近世的なものへと移行する過度的な技法をもった建物として貴重である。  滋賀県教育委員会
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安土宗論(安土問答)
天正7年(1579)信長の命により、浄土宗の僧貞安・霊誉らと、日蓮僧日珖・日諦らの間で行われた宗教論争。
信長は、京都を中心として勢力を伸ばし、他宗と衝突を繰り返す日蓮宗を押さえようとし、浄土宗に加担。日蓮宗は敗れて処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。

【現地を訪れて】
浄厳院は織田信長が近江守護の佐々木氏菩提所である慈恩寺跡地に建てたと云われているが、当時本当に「跡地」だったのだろうか。安土城が完成した安土城下に、先の近江支配者・六角氏の菩提所・慈恩寺があることを嫌って、慈恩寺を取り壊して、その跡に浄厳院を建てたのではないだろうか。
古いものを壊して新しいものを建てるのは、新たな支配者が領民達の帰属意識を高めるために行う常套手段である。
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◆織田信長が全国制覇を目前に、その拠点として築いた安土城は炎上し灰燼に帰したが、安土城とともに信長が創建した寺院が安土に残っている。 信長ほど多くの寺院を焼いた武将は後にも先にもいないが、その信長が創建した数少ない寺院の一つが安土に残り、当時を物語っているのは皮肉というべきか。 JR安土駅のすぐ近く、安土山を望む田園地帯の中に堂々たる姿を見せている「浄厳院(じょうごんいん)」がその寺院である。
近江には草創を聖徳太子に遡る寺院が結構多い。 全国に聖徳太子の開基とされる伽藍は48あるが、そのうち近江には12伽藍があり、浄厳院はその一つである。 時代下って室町時代正平年間に、近江の豪族佐々木六角氏頼が 母の菩提を弔うため この地に「天台宗慈恩寺威徳院」を建立したが、この寺は信長の兵火で消失した。 その後、信長が安土城を築城した際、金勝山の浄厳坊に住む応誉明感(おうよめいかん)上人を招き、慈恩寺の跡地を与えて再興させた(天正6年、1578年)のが「金勝山慈恩寺浄厳院」で、 近江・伊賀両国の浄土宗総本山と位置づけられた。
また当寺院は、日本の仏教史上有名な「安土宗論」(後述)の行われた寺として「信長公記」にも記され知られている。

JR琵琶湖線安土駅から西南方向へ10分ほど歩くと線路の南側に浄厳院の森があり、風格ある山門が迎えてくれる。通常参拝者はこの門から入るが、これは裏門(北門)で 正門は反対の南側にある。 正門への道は細い農道で車では行けない。 裏門の山門から入り、境内を通り抜けて正門である楼門から入り直した。
楼門は室町時代後期(16世紀中期)に 旧慈恩寺の楼門として甲良大工によって建てられたものを浄厳院の楼門として遺されたものである。 三間一戸、入母屋造、本瓦葺の2階建の門で、左右に仁王像を配し、非常に均整の取れた美しい建造物である。 平成8年の解体修理により建立当時の形式が明らかになり、現在の姿に復元・整備された。
建築技法的には 中世的なものを遺しながら、整然とした近世的なものへ移行する過渡的な技法が窺える建物として貴重なものとされている。 昭和41年に県文化財に指定された。 

楼門を入ると広い境内が開ける。 正面に本堂、右手に不動堂、釈迦堂、鐘楼が並んでいる。 本堂左手には勅使門、書院と池泉庭園がつながっている。
本堂は、桁行7間・梁間6間、一重、入母屋造、本瓦葺、向拝3間付きの豪華で重厚な堂々たる建物である。 この本堂は浄厳院創建に当たり、近江八幡多賀村(当時)の興隆寺弥勒堂を移したもので、室町後期の建物であるが、移築時に密教系本堂から浄土系本堂に内部が改変されたとされる。 明治36年に国の重要文化財に指定されている。 本尊が阿弥陀如来坐像(国重文)であることから、この本堂は阿弥陀堂とも呼ばれている。

本尊の阿弥陀如来像は平安時代の作で、犬上郡の古い大寺の本尊であった「二階堂本尊」を移したものであることが 台座の銘から判明している。
丈六の阿弥陀如来坐像で像高は 2.73m、全国的に見ても法界寺、法金剛院、三千院に並ぶ秀作とされている。 特に光背、天蓋を完備している点で注目されている。 本尊の頭上には雲文宝相華文を配した天蓋があり、背後には飛天の光背を負っている。 光背には 一体の大日如来坐像と十二体の飛天が透し彫りになっており、極楽浄土の雰囲気を醸し出し、荘厳な本堂に安置されるに相応しい仏像である。

本堂右手の不動堂は宝形造、桟瓦葺で禅宗様を取り入れた価値の高い小堂である。 江戸中期(1702年頃)に建てられたものである。 鐘楼は県内では珍しい袴腰付きの大型鐘楼で、平面は1間3.67mの方形である。 江戸中期(1742年頃)の建築と認められている。
他に当寺院の寺宝として、「絹本着色山王権現像」「厨子入銀造阿弥陀如来像」「厨子入銅製舎利塔」等があり、いずれも国の重要文化財に指定されている。その他、応誉明感上人画像、安土宗論記録等があるが、これら寺宝は年1回の虫干し会に出されるだけで普段は一般公開はされていない。
また浄厳院周辺は墓地であるが、その中に旧慈恩寺時代からの一角があって 佐々木一族の墓が立ち並び、佐々木満綱、持綱、時綱の三塚もある。
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【 安土宗論 】
安土桃山時代の仏教史の中で特筆されるのは、天正7年(1579年)5月に起こった「安土宗論」である。
関東の浄土宗の僧・霊誉玉念が安土に来て法話をした。 その聴衆の中に日蓮宗の信者が2人いて法話に言いがかりをつけて議論したいと申し出た。 玉念は それなら日蓮宗の代表的な僧を連れて来いと言い騒ぎとなった。 それを聞いた信長は、かねてから日蓮宗が他宗を排除しようと攻撃しているのに腹を立てており、機会があれば押さえ込もうと考えていたので、この時とばかり裁定に乗り出した。
家臣に命じて京都から日蓮宗の代表といわれる僧を数名呼び寄せ、浄厳院で問答を開くよう指示した。浄土宗の僧 貞安・霊誉ら4人と日蓮宗の日珖・日諦ら4人が列席して激しく宗論を闘わせた。結局、信長は浄土宗側に有利な裁定を下し、日蓮宗は敗れ処罰され 以降他宗への法論を禁じられたとされている。 それ以来、浄厳院では毎年11月の法要には、必ず「かちどき念仏」が唱えられているという。
 
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by azch | 2006-10-27 20:13 | 安土観光拠点
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信長の安土城跡を始め貴重で豊富な歴史文化・自然環境を活かした「安土まちづくり」情報を発信


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